前編:“スポーツ万能”な母、“脳性まひ”の息子
WE(2017.05.15)
渋谷のラジオ 「1億総笑える部」1周年記念放送回 ゲスト 母
皆さん、こんにちは!寺田ユースケと申します!
私は、生まれつきの脳性まひという障がいがあり、首から下に麻痺があります。主に足のまひが強く、ちょっとなら歩けますが、日常生活は車イスを使っております。
関西学院大学卒業後、車イス芸人、車イスホストを経て、この4月からHELP×PUSHで、HELPUSHというプロジェクトを始めます。『すべての人が、気軽に「助けて」と言えて、気軽に「後押し」ができる世の中にしたい。』というコンセプトに、道行く方々に「ちょっと車イスを押してください」と声をかけて進む、車イスヒッチハイクの旅で日本全国を廻ります。
以上が軽い自己紹介です。
渋谷のラジオで「障がいも性別も年齢も病気もぶっ飛ばして笑っちゃえ!」というコンセプトの「1億総笑える部」という番組(渋谷のラジオにて毎月第1日曜 21:00~22:00放送中)でパーソナリティをさせて頂いてます。
番組プロデューサーの粋な計らいで、放送1周年記念の特別ゲストが、なんと私の母である寺田恭子になりました。
どんな収録になるのか不安でしたが(笑)この際、どのように私を育ててくれたのか、普段は恥ずかしくて聞けないような話も聞いてみることにしました。
すると私が今まで知らなかった、母の息子への想いを知ることが出来ました。
父と母は、父はラグビー、母はダンスで、体育を専門としているスポーツエリートでした。スポーツが出来るところが自分たちの良いところで、周囲からも、スポーツ万能の二人に息子が出来た!サラブレットだね!ユースケくんは、将来どんなスポーツをやるのかな?と期待は凄かったそうです。
しかし、待望の息子は「脳性まひでスポーツが出来ない身体」と診断されました。
診断を受けた瞬間、抱きかかえていた息子を落としそうになった。それから記憶が飛び、夫が運転する車の後部座席で、ただただ涙が出たと。
スポーツが出来ることが夫婦にとってアイデンティティで、自分たちの生き方すらも否定されてしまった。そんな感覚に陥ってしまったそうです。
息子が診断を受けた日から突然、障がい児になってしまった。
けれど、笑顔で笑っている息子は、診断を受ける前日と全く変わらない笑顔で笑っていたのです。
その時、これから成長していくこの子のためにも、ここで立ち止まったらいけないと思ってくれたのです。
当時、障がい児の母親は仕事を辞めて付きっ切りで面倒を見るのが一般的でした。
それでも、新米大学教員だった母は仕事を辞めることなく、私が社会で活躍出来る人間になれるように、自分の研究内容を一新し、障がい者スポーツの勉強を始めてくれたのでした。
そして父と母、家族で私の障がいを良くする訓練の日々が始まりました。
訓練を嫌がる私に、母が考案した”楽しい遊び”である「シール剥がし」があります。
好きなことなら熱中できるのではないか?
2歳の私が部屋に貼られたアンパンマンシールを笑いながら一生懸命剥がして笑っているのを見て、部屋のいたるところにシールを貼ったのです。
それを毎日、ひたすら剥がす。それが自然と手のリハビリになっていたのです。
医者には手も不自由で使えなくなると言われていたにも関わらず、劇的に回復し、今では手の障がいはほとんど感じません。
お友達のお家のトイレに入り、なかなか出てこないと思ったらトイレのシールを剥がしていたくらい、熱中していたそうです(笑)
このシール剥がしが私にとっての原点でした。
その後、小学校低学年になり、母がいつもド派手な格好で授業参観に来るのが子ども心に、目立ちたがりの母が鬱陶しかったのを覚えています(笑)
なぜ派手な服を着ていたかと言うと当時、障がい児の母ということで舐められたくなったという思いがあったそうです。
スポーツが好きな両親の血の影響か小学生になった私は、5年生の時、少年野球チームに入りたいと言い出しました。プロ野球選手になりたいような子たちが集まるチームです。
母は、走ることの出来ない野球少年に、何が出来るのか?そう思ったけれど、親に黙って練習を見に行っていたことを知っていて、やりたいという意思をまずは尊重しようと入団を許してくれました。
みんなと同じように入団できた。やっぱりボクは、両親の血を継いで運動神経抜群なんだという勘違いをしていました(笑)
本当は、裏で母が家族が、監督さんや他の子たちのお母さんたちに、「ユースケには出来ないことが多いですが、頑張ると思うのでよろしくお願いします」としっかり伝えてくれていたのです。
だから私は、無事に野球を楽しむことが出来たのです。
とはいえ、走れなければ、バットもろくに振れない私です。
薄々気がついていました。そしてこう思ってました。
「走れないボクは、みんなと同じように活躍は出来ない。どうしたら活躍出来るだろうか?」
毎日小学生なりに悩んでいた私に、監督が言いました。
「寺田、バントを極めろ!」
その日から、来る日も来る日も、お父さんにボールを投げてもらいバンドの練習をしました。
練習でも、みんながランニングしている間にひたすらバントの練習を。
そして忘れられない1日を迎えます。
初めて公式戦に9番ライトでスタメン出場することになったのです。
母は、その日のことが忘れられない。本当に良い監督に出会ったと私に話してくれました。
試合前、円陣を組んで監督がみんなに言いました。
「いいか、みんな聞いてくれ。俺は、寺田がスタメンで出る夢を見た。そして俺たちは試合に勝った。だから、俺は寺田を9番ライトで出す。みんないいか?」
公式戦です。私が出るということは、代わりに一人出られなくなる。けれど、その子も含め、おお〜!頑張るぞ!と歓声が湧いたのです。
試合が始まり、絶好のバントのチャンスに打席が回ってきました。
今でも鮮明に覚えています。監督からバントのサインが出ました。
そして、コツンとバントを成功出来たのです。
その時のチームの盛り上がり、母の喜びようは今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。
けれど、それだけでは終わりませんでした。
ライトを守る私。
走ることの出来ない、守備範囲半径1mのライトです。
緊迫した試合状況の中、なんと相手バッターの強烈な打球が飛んできたのです。
その瞬間、母はダメだ!ユースケのミスで負けてしまう!と目を向けられなかったそうです。
けれど、よろっと1歩だけ動いた私のグローブには、白球がすっぽり入っていました。
うぉ〜!歓喜するチームメイトとのハイタッチは今でも忘れません。
さらに打球が飛んだ瞬間、キャッチャーの「寺ちゃんのとこへ走れ〜!」への一声で、センターが、レフトが、セカンドが、瞬時に動き、駆け寄り、私がボールを捕る瞬間には、仮に落としてもミスにならないように、すぐ近くまでカバーをしに全速力で走ってくれていたのです。
母も涙を流しながら、周りの親御さんたちとその瞬間を見てくれていました。
無事チームは勝利し、最高の経験をすることが出来ました。
この少年野球での経験は宝物です。
しかし、健常者の少年野球チームに入ってまで、明るく、がむしゃらに白球を追い続けていた寺田少年は、思春期に入ると障がい者である自分を受け入れることが出来なくなってしまいました。
寺田ユースケ
後編へ続く
皆さん、こんにちは!寺田ユースケと申します!
私は、生まれつきの脳性まひという障がいがあり、首から下に麻痺があります。主に足のまひが強く、ちょっとなら歩けますが、日常生活は車イスを使っております。
関西学院大学卒業後、車イス芸人、車イスホストを経て、この4月からHELP×PUSHで、HELPUSHというプロジェクトを始めます。『すべての人が、気軽に「助けて」と言えて、気軽に「後押し」ができる世の中にしたい。』というコンセプトに、道行く方々に「ちょっと車イスを押してください」と声をかけて進む、車イスヒッチハイクの旅で日本全国を廻ります。
以上が軽い自己紹介です。
渋谷のラジオで「障がいも性別も年齢も病気もぶっ飛ばして笑っちゃえ!」というコンセプトの「1億総笑える部」という番組(渋谷のラジオにて毎月第1日曜 21:00~22:00放送中)でパーソナリティをさせて頂いてます。
番組プロデューサーの粋な計らいで、放送1周年記念の特別ゲストが、なんと私の母である寺田恭子になりました。
(写真:渋谷のラジオ 収録時)
どんな収録になるのか不安でしたが(笑)この際、どのように私を育ててくれたのか、普段は恥ずかしくて聞けないような話も聞いてみることにしました。
すると私が今まで知らなかった、母の息子への想いを知ることが出来ました。
父と母は、父はラグビー、母はダンスで、体育を専門としているスポーツエリートでした。スポーツが出来るところが自分たちの良いところで、周囲からも、スポーツ万能の二人に息子が出来た!サラブレットだね!ユースケくんは、将来どんなスポーツをやるのかな?と期待は凄かったそうです。
(写真:母と診断を受けたころの寺田)
しかし、待望の息子は「脳性まひでスポーツが出来ない身体」と診断されました。
診断を受けた瞬間、抱きかかえていた息子を落としそうになった。それから記憶が飛び、夫が運転する車の後部座席で、ただただ涙が出たと。
スポーツが出来ることが夫婦にとってアイデンティティで、自分たちの生き方すらも否定されてしまった。そんな感覚に陥ってしまったそうです。
息子が診断を受けた日から突然、障がい児になってしまった。
けれど、笑顔で笑っている息子は、診断を受ける前日と全く変わらない笑顔で笑っていたのです。
その時、これから成長していくこの子のためにも、ここで立ち止まったらいけないと思ってくれたのです。
当時、障がい児の母親は仕事を辞めて付きっ切りで面倒を見るのが一般的でした。
それでも、新米大学教員だった母は仕事を辞めることなく、私が社会で活躍出来る人間になれるように、自分の研究内容を一新し、障がい者スポーツの勉強を始めてくれたのでした。
そして父と母、家族で私の障がいを良くする訓練の日々が始まりました。
訓練を嫌がる私に、母が考案した”楽しい遊び”である「シール剥がし」があります。
好きなことなら熱中できるのではないか?
2歳の私が部屋に貼られたアンパンマンシールを笑いながら一生懸命剥がして笑っているのを見て、部屋のいたるところにシールを貼ったのです。
それを毎日、ひたすら剥がす。それが自然と手のリハビリになっていたのです。
医者には手も不自由で使えなくなると言われていたにも関わらず、劇的に回復し、今では手の障がいはほとんど感じません。
お友達のお家のトイレに入り、なかなか出てこないと思ったらトイレのシールを剥がしていたくらい、熱中していたそうです(笑)
このシール剥がしが私にとっての原点でした。
その後、小学校低学年になり、母がいつもド派手な格好で授業参観に来るのが子ども心に、目立ちたがりの母が鬱陶しかったのを覚えています(笑)
なぜ派手な服を着ていたかと言うと当時、障がい児の母ということで舐められたくなったという思いがあったそうです。
(写真:真っ赤な派手な服を着て授業参観に来た母)
(写真:小学校のとき、ギブス治療をしていた寺田)
スポーツが好きな両親の血の影響か小学生になった私は、5年生の時、少年野球チームに入りたいと言い出しました。プロ野球選手になりたいような子たちが集まるチームです。
母は、走ることの出来ない野球少年に、何が出来るのか?そう思ったけれど、親に黙って練習を見に行っていたことを知っていて、やりたいという意思をまずは尊重しようと入団を許してくれました。
みんなと同じように入団できた。やっぱりボクは、両親の血を継いで運動神経抜群なんだという勘違いをしていました(笑)
本当は、裏で母が家族が、監督さんや他の子たちのお母さんたちに、「ユースケには出来ないことが多いですが、頑張ると思うのでよろしくお願いします」としっかり伝えてくれていたのです。
(写真:少年野球チーム 名古屋ウエスタンズ)
だから私は、無事に野球を楽しむことが出来たのです。
とはいえ、走れなければ、バットもろくに振れない私です。
薄々気がついていました。そしてこう思ってました。
「走れないボクは、みんなと同じように活躍は出来ない。どうしたら活躍出来るだろうか?」
毎日小学生なりに悩んでいた私に、監督が言いました。
「寺田、バントを極めろ!」
その日から、来る日も来る日も、お父さんにボールを投げてもらいバンドの練習をしました。
練習でも、みんながランニングしている間にひたすらバントの練習を。
そして忘れられない1日を迎えます。
初めて公式戦に9番ライトでスタメン出場することになったのです。
母は、その日のことが忘れられない。本当に良い監督に出会ったと私に話してくれました。
試合前、円陣を組んで監督がみんなに言いました。
「いいか、みんな聞いてくれ。俺は、寺田がスタメンで出る夢を見た。そして俺たちは試合に勝った。だから、俺は寺田を9番ライトで出す。みんないいか?」
公式戦です。私が出るということは、代わりに一人出られなくなる。けれど、その子も含め、おお〜!頑張るぞ!と歓声が湧いたのです。
試合が始まり、絶好のバントのチャンスに打席が回ってきました。
今でも鮮明に覚えています。監督からバントのサインが出ました。
そして、コツンとバントを成功出来たのです。
その時のチームの盛り上がり、母の喜びようは今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。
けれど、それだけでは終わりませんでした。
ライトを守る私。
走ることの出来ない、守備範囲半径1mのライトです。
(写真:練習中の寺田)
緊迫した試合状況の中、なんと相手バッターの強烈な打球が飛んできたのです。
その瞬間、母はダメだ!ユースケのミスで負けてしまう!と目を向けられなかったそうです。
けれど、よろっと1歩だけ動いた私のグローブには、白球がすっぽり入っていました。
うぉ〜!歓喜するチームメイトとのハイタッチは今でも忘れません。
さらに打球が飛んだ瞬間、キャッチャーの「寺ちゃんのとこへ走れ〜!」への一声で、センターが、レフトが、セカンドが、瞬時に動き、駆け寄り、私がボールを捕る瞬間には、仮に落としてもミスにならないように、すぐ近くまでカバーをしに全速力で走ってくれていたのです。
母も涙を流しながら、周りの親御さんたちとその瞬間を見てくれていました。
無事チームは勝利し、最高の経験をすることが出来ました。
この少年野球での経験は宝物です。
(写真:卒団証書)
しかし、健常者の少年野球チームに入ってまで、明るく、がむしゃらに白球を追い続けていた寺田少年は、思春期に入ると障がい者である自分を受け入れることが出来なくなってしまいました。
後編へ続く